閲覧禁止!(秘封倶楽部SS)


 
 大学の図書館は、今日も多くの学生で賑わっている。貸出用の週刊誌を読んでいる人、課題をやるために参考書を読んでいる人、個室で仮眠を取っている人……などなど。多くの人が多くの文字と過ごす場所で、私──マエリベリー・ハーンは大量の参考書を前に頭を抱えていた。
 ページを捲る音が響く空間に、露骨なまでに大きい溜息が漏れ、周囲の視線が一瞬私に集まる。
「あ……」
 慌てて口元を隠し、目の前の参考書を読んでいるフリをする。が、すぐに投げ出して机に突っ伏す。課題をやろうと思ったのに、数字も方程式も理論も何も頭に入ってこないのだ。
 私がこんなにも心に余裕がない理由は、明瞭にして明確だった。
「蓮子のせいよ……」
 私の大学での友達。親友──とかいうよりも相棒と呼ぶほうがしっくりくる大事な存在。
 宇佐見蓮子。黒い帽子に赤いネクタイが似合う、黒髪の綺麗な女の子。その蓮子は、今は私の隣にいない。
 先ほど、私は目撃してしまったのだ。蓮子が背の高い男の人と一緒に町を歩いているところを。
 そりゃ、大学生なんだし……そういうことの一つや二つあってもおかしくない。けれど、蓮子に男女の恋愛というものは疎遠だろう、とか思っていた私にとってあの光景は大打撃だった。金づちで頭を殴られたような、鐘が脳内で鳴り響いているような──そんな感覚を味わい、気付いたら図書館まで歩いてきていたらしい。
「やっぱり、彼氏なのかなぁ」
 小さな声で呟く。というか、なんで私ショックを受けているのかしら……? 友達に彼氏ができたんだから、祝福してあげればいいのに。どうして、それができないのか。先を越されちゃったなぁ、みたいな敗北感がどこかにあるからかしら。
「あー、もう。集中しないと……」
 蓮子がいないところでも、彼女の存在に振り回されているなんて、私って本当に馬鹿なんだから……。
 蓮子と私の二人は、この大学で自称霊能者サークル『秘封倶楽部』を名乗っている。あくまで自称だ。正式に許可が下りて活動しているサークルではない。なので、顧問もいないし経費も下りない。怪しそうな場所に遠征を繰り返して、超常現象をこの目で確かめようというだけのサークル──そして、蓮子が私のために作ってくれた居場所。
 なのに、先に離れて行くなんて……蓮子はずるいわ。
 席を立ち、新たな参考書を探す。相対性精神学の参考書は数が少なく、図書館の書籍検索にも引っ掛かり難いため、自分で探し歩いたほうが早いのだ。
「えーっと……ん?」
 背表紙に何も書かれていない変な本を見つけた。思わず手に取ってみる。
 何も書かれていないわけではなく、ただ単純にカバーが外されていて何の本か分からないだけだったのだが……。
「なっ、ななな!?」
 その本のタイトルに、思わず顔が熱くなった。

 キスの場所で分かるっアナタの深層心理!

 想像と妄想が色々と連鎖を繰り返し、私はその本をバッシーンッ! と床に叩きつけた。
 ビックゥッ! と周囲の人々が驚き振り返るが、私と目が合うなり、そそくさと退散していった。
 落ち着け……落ち着くのよメリー、メリー、マエリベリー・ハーン。思春期のウブな少女ならば許容できる反応だろうけれど、私はもう大人なのよ! こんな書物一冊にうろたえ過ぎよ!
「……………………」
 床に転がった本を黙って拾い上げると、私は手荷物をまとめ、貸出カウンターに向かった。
 無表情をできるだけ装い、ギョッとしている司書さんにただ一言だけ。
「これ借ります」

             ☆

 閑静な住宅街にある私が住居を構えているマンションは、あまり住民同士の交流はない。なので、管理人さんや主婦さんたちの間を脱兎の如くすり抜け、エレベーターで昇り、自室の玄関を開け、ベッドにダイブするまで一言も発さなかった私は、お隣さん家を気にすることなく大声で叫んだ。

「私の馬鹿ぁあああああああッ!」
 
 結局レポートは一ページも進まなかったというのに、私の鞄の中には『キスの場所で分かるっアナタの深層心理!』が入っている。
 ただの思いつきだった。
 この半年付き合ってきて分かったのだが、蓮子はこういう知識には弱い。だから、これを蓮子に見せて反応を楽しみ、からかってやろう──そう思っただけなのだが。
「……うわぁ」
 数分後、件の本を熟読している私がいた。
 ドキドキしながらも、ページを捲っては赤面する蓮子の面白い顔が見たかっただけなのだが、実のところただ私が読みたかっただけなのかもしれない。
 ほら、なんていうか……予行練習みたいな?
 ──私は誰に言い訳しているんだろう。
「……うわぁ」
 さっきから同じ音しか口から出てないが、本の内容はなかなかにディープだった。というか、よく調べたなぁと感心すら覚えた。キス、というとやはり唇でしょ? ぐらいの知識しか抱え込んでいない私に取って──というか恐らく誰が読んでも──この本は刺激が強かった。
 その場所にキスをする意味を知った上でこれを実践したら、かなりのアピールになるだろう。ただ、相手が知っていなければ意味がないだろうけど……。
 でも。
 相手が知らないのを承知で、自分だけ実践して、意味を知っているというのは、非常に面白いのではないだろうか。
 恋人ができたら──
「ん……」
 体を起こして、虚空を見つめる。脳裏に蓮子とその彼氏が一緒に歩いているところが蘇り、なんとも言えない気分になった。
 私は、蓮子のことを──
「どう、思っているんだろう」
 もう、彼氏とキスとかしたのかな……。
 一瞬想像しかけて、すごく嫌な気分になった。
 その時、呼び鈴が鳴った。ピポピポーン、と遠慮のない呼び鈴の二度押し。
「蓮子?」
 ピポピポーン。
 間違いない、この不躾な押し方は蓮子だ。でも、どうして? まだ時間は夕方前。外出から帰ってくるのは、少し早いような……。
 疑問を抱きつつ、ドアノブを回すと目の前にはいつも通りの蓮子がいた。
「やっ、メリー。遊びに来たよ」
「ん、いらっしゃい」
 なんだか少し上機嫌な蓮子にイラッとしつつも、表に出さないようにして中に通した。
「帰り、早かったわね。どこまで出掛けていたの?」
 探るような質問をしてみる。
 ソファに腰掛けた蓮子は、首を傾げて、
「あれ、今日出掛けるって言ってたっけ? いや、ちょっとね。隣町まで買い物に」
 ふふーん、と得意げに言う蓮子の手には、紙袋に入った何か。
「ふーん。彼氏さんに買ってもらったの?」
 私は蓮子の隣に座り、言った。
 蓮子の嬉しそうな顔に堪え切れなくなって、思わず『彼氏』という単語を口走ってしまった。
 あっ、と思ったのも束の間。
 蓮子は、
「は?」
 と、正直な顔で返してきた。お前はいったい何を言っているんだ? という表情だ。
「えっ……あれ、違うの? 今日一緒にいた男の人……」
「は、はぁっ? ちが、違うわよ! あいつは同じ学科の同級生で、ただ買い物に付き合ってもらってただけよ!」
 ムキになって言う蓮子の顔が迫真に迫り過ぎていたので、かなり驚いてしまった。
 なんていうか子供っぽい、初めて見る顔だった。
「だ、だいたい! 私がそういうの、めっきりダメだっていうの、メリーだって知ってるでしょ! ばかっ、メリーのばかっ! ばかメリー!」
 次第に顔が赤くなる蓮子がとても面白くて、さっきまで抱いていたモヤモヤとしたものは、全部吹っ飛んでしまったようだ。代わりに出てきたのは、呼吸が困難になるほどの笑いだった。
「あははっ! くふっ、ほ、本当に?」
「笑うなー! ホントに買い物に付き合ってもらっただけで、あいつはそんなんじゃないんだから!」
 バッ、と目の前に突き出された紙袋。それを受け取り、中を見てみると、コーヒー豆を挽いた粉のパックが入っていた。
「あいつカフェでバイトしてて、コーヒーの豆とか詳しくてさ。で、私が好きそうなやつ見つけたから一緒に買いに行こうって誘われて。それで一緒に見に行っただけよ!」
 上気した顔で、必死に言葉を並べる蓮子。
 ここまでムキになられると逆に疑ってしまうモノなのだが、……やっぱり蓮子に限ってそういうことはないか、と納得してしまうのだった。
「なーんだ。蓮子に彼氏ができたと思って、一人で盛り上がっていた私が馬鹿だったわ」
 と言いつつ、安堵の息を漏らす。なんであんなに不安だったのか、その理由がちゃんと分かったからだ。
「あの男の人、蓮子のこと好きなんじゃない?」
「なっ!?」
「買い物一緒に行こうって、彼なりのデートのお誘いだったんじゃない?」
「お、おおお……うー、やっぱそうなのかなぁ。恋愛感情なんて、よく分からないわよ」
 そんな蓮子の様子を見て、クスクス笑う私。こんなにもコロコロと表情を変えて、自分の気持ちに素直で、だけど真剣に考えて。
 そんな蓮子のことが、私はきっと──
「蓮子」
 隣同士。ソファが軋む音。
 私は蓮子の太ももにそっと手を掛け、少し体を預けるようにして、
「あううう──え?」

 私は蓮子の首筋にキスをした。

 触れるか触れないかの、短いキスだったけど。蓮子の髪が頬に掛かって、蓮子の匂いがして、私は内心ドキドキしていた。
 これでもう、今日の主導権は頂きね。そう思っていた私は、蓮子の顔を見て──絶句した。
 ニヤニヤしていたのだ。今の今まで取り乱して、子供みたいに騒いでいた蓮子が、私の顔を見てイジワルな笑みを浮かべている。
「あ、えっ──れ、蓮子……?」
「へぇ、そこにキスするんだ。メリーってば、結構独占欲強いのね?」
 そう言った蓮子は、お返しとばかりに服の開いた私の胸元にキスをした。流れる動作に、何の反応も対応もできなかった私は、魚のように口をパクパクさせていた。
 行為の意味を理解した瞬間、自分の顔が火を噴いたように真っ赤になるのが分かった。体中を巡る血液が、全て熱を持ったように──実際持ってるんじゃないかってぐらい、私の体温を上げた。鼓動が速くなり、ますます体が火照り始める。
 ──やられた! 蓮子は、意味を知っているんだわ!
 自分の浅はかな考えと行動に居たたまれなくなった私は、
「わ、私コンビニ行ってくる!」
 ソファから飛び上がり、靴も履かないでそのまま玄関から飛び出した。
 一瞬でも、蓮子に勝ったと思った自分が酷く惨めで……でも、不思議と嫌な気分はしなかった。
 私が抱いていたのは嫉妬だったのだ。
 蓮子が取られてしまう、違う場所に行ってしまう。その気持ちが、今回の騒動を巻き起こしたに違いないのだ。
 そこまで見抜かれてしまったのなら、蓮子の顔はしばらく直視できないだろうなぁ……と、廊下を走りながら思った。

 そして、『意外にも天真爛漫なハーンさん』として、しばらくご近所で囁かれることとなったのだった。

             ☆

 部屋に残された私は、メリーが戻ってくるまでにコーヒーでも淹れとくかーと、勝手に台所を使っていた。
 台所の食器棚に反射した自分の首を見ながら、ふと思い出し笑いをする。
 ──それにしても、ひっどい慌てようだったわね。首にキスマーク付けるのって、独占の印みたいなもんだって聞いたことあったんだけど。別に付いてないし、メリーったら意気地がないんだから。
「よしっ」
 中古で買ってきた(メリーと割り勘で)コーヒーメーカーに先ほどの豆をセットし、スイッチを押す。
「今度は手軽にできるカフェポッドでも試してみようかしら」
 抽出がされてる間、どうしたもんかとリビングに戻って来てみると、カバーが巻かれていない本が目に止まった。
「んー? メリーがカバーを外すなんて珍しい……」
 手に取ってその表紙を見た私は、ぽろりと本を取り落とした。何かの間違いだと即座に拾い、もう一度タイトルを凝視する。
 やはり間違いではない!
「な、なによこれ!? 『キスの場所で分かるっアナタの深層心理!』って、えぇえ!?  胡散臭い、特に『っ』の辺りが既に胡散臭い!」
 とか何とか叫びつつも、やはり好奇心には勝てずに、そのままページを捲った。目次を見て真っ先に調べたのは、首筋と、胸だった。
 そして、私は卒倒した。

 【首筋】執着/貴方に心をとらわれて、もう貴方のことしか考えられない。

 【胸】所有/貴方は自分のもの。他の誰にも渡したくないし、させない。

「あぁ……、なんということでしょう」
 本を閉じ、元あった場所に戻す。ふざけた口調で平静を取り繕ってみるが、まぁ無理だった。色々考えてしまい、乙女のようにジタバタする。
「独占強いのは、私のほうなのかなぁ……」
 悶々と考えながら台所に戻ると、抽出されたコーヒーをカップに注いだ。上手く思考がまとまらないので、先にカフェインで洗い流そうという算段だったのだが。
 そこにメリーが帰ってきた。



「ただいま……」と小さく言ったメリーは、スカートの前のほうを両手で強く握り、恥ずかしさを堪えているようだった。結局何も買ってないようだし、靴を履かずに飛び出したのか、靴下がかなり汚れていた。
 それらを視界に収めた瞬間、なんとも言い難い熱い感情が心の奥底から湧き上がってきて、私は無言でイスに座った。そして、窓の外を見つめ続けた。
 今メリーを見てしまったら、愛おしさが爆発してしまいそうだったからだ。
 メリーが小首を傾げながら、向かいに座るのが視界の端に映った。メリーも同じようにもじもじして、視線は下を向いたままだった。

 程よくして、コーヒーの良い香りが空間を満たし始めた。
 けれど、完全にのぼせ上がった私たちの目が覚めるには、まだまだ時間が掛かかりそうだった。


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